アイルトン・セナの伝説、ドライビングテクニックとサンマリノ

セナの神がかり的な走り

音速の貴公子と呼ばれたアイルトン・セナ、最後のマシンはルノーでした。

優勝41回、ワールドチャンピオン3回の実績、シューマッハほどの勝利数ではないですが、セナに魅かれるのはなぜでしょうか。

セナは、神がかり的な走りでした。圧倒的なドライビングテクニックと剥き出しの闘争心が見るものに感動を与えたのです。

イモラサーキットの悪夢

1994年5月1日午後2:17
サンマリノ・グランプリ
イタリア イモラサーキット

セナはロスマンブルーのルノーマシンで、ポールポジションからトップを走り続けます。2位は若きシューマッハで優勝候補でした。

7週目の高速タンブレロコーナーで、セナのマシンは、200キロの速度で壁に激突します。

しかし、直前、女性広報官はセナの異変に気付いていました。

レース直前、あの強気なセナが、いつになく不安気だったという。

あの日、セナの身に、いったい何が起こったのか?

運命を感じていたセナ

それは、あまりにも過酷な週末でした。

1994年5月1日は、良く晴れた日でしたが、セナの表情は沈んでいました。

セナの元広報官 ベアトリス・アスンソンは、事故の前日、異変を感じていました。

セナがとても震え、不安を感じて動揺し、ずっと泣いていたそうです。あんなセナは見たこともなかったと語っています。

ヨーロッパ中心のF1の舞台で、セナはブラジル人ドライバーとして次々と勝利し、世界最速と呼ばれました。

セナを差別するような政治的な陰謀や、不公平な扱いも数多くありました。

セナの走りの本質

だが、セナは、どんな状況でも妥協せず自分の走りを追及していました。

勝つために命を懸け、雨のレースでもアクセルを全開にしました。誰よりもアクセルを踏み続けたのです。

若いときの、セナ自身の言葉

いつでも、「もっと速く走りたい」というのが、僕の本性です。これだけは、経験や知識ではどうにもならない、僕の本質的な部分なんです。

ハイスピードでコーナーを攻める時とか、ギリギリのブレーキング、あと一歩でコントロールを失い、クラッシュするかもしれないという、あのスリリングな感覚、そういった限界に近づけば近づくほどエキサイトしていきます。

誰よりも速さを求めたセナ、その速さは、圧倒的なテクニックに裏打ちされていました。

カートテクニックと走りの伝説

10代のカートレース時代、セナの走りは、天性のハンドル捌きで、減速せずにコーナーへ突入していました。コーナーギリギリを攻めても、コースアウトしませんでした。

セナのカートテクニックは、コーナー手前で、ハンドル操作によってマシンの向きを変えてしまうものです。

マシンをスライドさせて、カウンターをあてながら向きを変えてしまうのです。

ブレーキをかけずに、減速せずにマシンの向きを変えてしまうのです。

天性のドライビングテクニックで、身体のすべてでマシンを感じ、マシンをコントロールしてしまうのです。

セナの伝説のひとつに、セナ足と呼ばれるアクセルワークがあります。

普通のドライバーは、コーナーでは減速するためアクセルは踏みません。ところがセナは、コーナーを抜けるときの、立ち上がりを速くするために、エンジンの回転数を高く維持しようと、アクセルのオンオフを細く繰り返します。

回転数が落ちないのでトルクのある加速が可能でした。

呪われた週末

1994年サンマリノ・グランプリは、信じられない週末でした。不幸な事故が続き、ほとんどのドライバーが走りたくなかったでしょう。

予選初日 デビュー2年目のルーベンス・バリチェロが意識不明になるクラッシュ

予選2日目 デビュー1年目の新人ドライバー、ローランド・ラッツェンバーガーがクラッシュして即死。

F1としては、12年ぶりの死亡事故でした。セナは、初めて死亡事故を目の当たりにし、激しく動揺し、泣き崩れました。

その夜、セナは恋人に電話をかけたのです。

「走りたくない・・・」

初めて襲われた恐怖に、セナは追い詰められていました。

それでもセナは、翌日、サーキットに現れました。

前回までのレースでリタイアが続き、勝てずに焦っていたという状況もありました。

予選二位のシューマッハは、すでに2戦連続優勝しており、セナは、これ以上、負けられないと葛藤していました。

若い頃のセナの言葉

2位というポジションは敗者のトップ、僕にとって最も大切なのは勝つことだ。

サンマリノ・グランプリがスタートし、7週目、セナは時速200キロでタンブレロの壁に激突。4時間後死亡が確認されました。

ブラジルでの国葬は、120万人が沿道を埋め尽くしました。

不可解な死

しかし、セナの死には、不可解な点がありました。

衝突直前、セナは、ブレーキを踏んでいますが、なぜか、コンクリートの壁に一直線に向かってクラッシュしています。

コースをはずれ、まるでブレーキをかけていないような猛スピードで壁にぶつかりました。

事故当時、いろいろな憶測が流れました。

何かの原因でセナが意識を失い、車をコントロールできなかったのではないかとも言われていました。

事故後、セナの死の責任をめぐって裁判が開かれました。

セナを殺したのは誰か、というものでした。

容疑者として、セナのマシンのチーフエンジニアだったパトリック・ヘッド(セナの元広報官 ベアトリスの夫)があげられました。

何故、パトリックは起訴されたのか?

セナは、以前からパトリックにマシンの不調を訴えていたのです。車体が不安定だとセナは言っていたのです。

しかし、F1は、ルール変更によって、この年から電子制御システム(マシンが自動で全コーナーのバランスをとるシステム)の使用を禁止したのです。

制御システムを搭載した車は、まさに敵なしで、F1がつまらなくなりました。そこでレースを面白くするためルールを変更したのです。

電子制御システムによってマシンが速くなっているのに、安全性の検証を行わずに制御システムを外す、それは、野獣のような車を不安定にさせるだけでした。

セナは、その危険性に気づいてました。

観客を惹きつけるためには、より、スリリングなレースが必要、しかし、その結果、安全が置き去りにされたのです。

8年に及ぶ裁判の結果は、確かにマシンに異常はあったが、事故の責任までは問えない、というものでした。

結局、セナの事故の原因は、解明されなかったのです。

事故当日、生放送で見ていて、なぜ、セナの車がコースをはずれ、壁に向かったのか不思議でしたし、まるで吸い込まれるように壁に衝突したのが記憶に残っています。

あまりのショックで、数日間、仕事になりませんでした。

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