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なぜ「アイルトン・セナ」は日本人を魅了したのか?呪われた週末

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マクラーレンホンダ F1日本グランプリ
マクラーレンホンダ
F1日本グランプリ
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「アイルトン・セナ」についての解説です。1994年5月1日、イタリア「イモラサーキット」での「サンマリノ・グランプリ」は、悪夢になりました。多くの日本人が愛した「音速の貴公子」と呼ばれた「アイルトン・セナ」が天に召されたのです。

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セナの「神がかり的」な走り

「音速の貴公子」と呼ばれた「アイルトン・セナ」、最後のマシンはルノーでした。

 

優勝41回、ワールドチャンピオン3回、ミハエル・シューマッハほどの勝利数ではないですが、なぜセナに魅せられるのでしょうか。

 

セナの走りは、神がかり的でした。圧倒的なドライビングテクニックと、剥き出しの闘争心が、見るものに感動を与えたのです。

 

後にルイス・ハミルトンが、「セナは、F1マシンとダンスを踊れる」と言ったことがあります。常にアクセルを限界まで開けて、スリップして左右に揺れるF1マシンを、本能的なハンドルさばきでコントロールしてました。それはまるで、F1マシンとダンスを踊っているようでした。研ぎ澄まされた感覚でしか実現できないテクニックです。

 

レースになると、どこまでもスピードを追い求め、妥協しない強い精神力が、日本人の気質にも合うのかもしれません。セナの走りは、見ているだけでワクワクし興奮してきました。スポーツは、見る人に感動を与えます。セナの走りを見て、「全力を尽くす」ことが、いかに大切か教えられました。仕事で嫌なことがあっても頑張れたものです。

 

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イモラサーキットでの「悪夢」

1994年5月1日午後2時17分、「サンマリノ・グランプリ」イタリア イモラサーキット

 

セナは、ロスマンブルーのルノーマシンで、ポールポジションからトップを走り続けます。2位は若きシューマッハで優勝候補でした。

 

7週目の高速タンブレロコーナーで、セナのマシンは、200キロの速度で壁に激突します。緩やかな左コーナーを、曲がらずに直進したのです。私は、日本時間深夜の生中継を見ていて、信じられない光景に言葉を失いました。まるで壁に吸い寄せられるように衝突したのです。セナのドライビングテクニックと、最先端のルノーマシンなら、簡単に走れるコーナーでした。何が起きたのかわからず、頭の中が混乱しました。

 

しかしレース直前、女性広報官はセナの異変に気付いていました。いつも強気なセナが、いつになく不安気だったというのです。

 

あの日、セナの身に、いったい何が起こったのか?

 

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運命を感じていた「セナ」

 

それは、あまりにも過酷な週末でした。

 

1994年5月1日は、良く晴れた日でした。しかし、セナの表情は沈んでいました。セナの元広報官「ベアトリス・アスンソン」は、事故の前日、異変を感じていました。

 

セナがとても震え、不安を感じて動揺し、ずっと泣いていたそうです。「あんなセナは見たこともなかった」と語っています。

 

ヨーロッパ中心の「F1」の舞台で、セナは「ブラジル人ドライバー」として次々と勝利し、世界最速と呼ばれました。ヨーロッパ出身でないセナを、差別するような政治的な陰謀や、不公平な扱いも数多くありました。

 

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セナの走りの本質とは

しかしセナは、どんな状況でも妥協せず、自分の走りを追及していました。

 

勝つために命を懸け、雨のレースでもアクセルを全開にしました。誰よりもアクセルを踏み続けたのです。

 

 

若いときの、セナ自身の言葉です。

 

いつでも、「もっと速く走りたい」というのが、僕の本性です。これだけは、経験や知識ではどうにもならない、僕の本質的な部分なんです。

 

ハイスピードでコーナーを攻める時とか、ギリギリのブレーキング、あと一歩でコントロールを失い、クラッシュするかもしれないという、あのスリリングな感覚、そういった限界に近づけば近づくほどエキサイトしていきます。

 

誰よりも「速さ」を求めたセナ、その速さは、圧倒的なテクニックに裏打ちされていました。

 

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カートテクニックと走りの伝説

十代のカートレース時代、セナの走りは、天性のハンドルさばきで、減速せずにコーナーへ突入していました。コーナーギリギリを攻めても、コースアウトしませんでした。

 

セナのカートテクニックは、コーナー手前で、ハンドル操作によって「マシンの向き」を瞬間的に変えてしまうものでした。マシンをスライドさせて、カウンターをあてながら向きを変えてしまうのです。ブレーキをかけずに、減速せずに、マシンの向きを変えてしまうのです。

 

天性のドライビングテクニックでした。身体のすべてを使い、マシンを感じ、マシンをコントロールしてしまうのです。

 

セナの伝説のひとつに、「セナ足」と呼ばれるアクセルワークがあります。

 

一般的なドライバーは、コーナーではスリップを抑えるため、アクセルは踏みません。ところがセナは、コーナーを抜けるときの、立ち上がりを速くするために、エンジンの回転数を落とさないよう、アクセルの「オンオフ」を小刻みに繰り返します。震えるようにアクセルを踏むので、エンジンの回転数が落ちず、コーナー立ち上がりでトルクのある加速が可能でした。

 

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呪われた週末

1994 年のサンマリノ・グランプリは、信じられない週末でした。不幸な事故が続き、ほとんどのドライバーが走りたくなかったでしょう。

 

予選初日 デビュー2年目のルーベンス・バリチェロがクラッシュして意識不明になりました。

 

予選2日目 デビュー1年目の新人ドライバー、ローランド・ラッツェンバーガーがクラッシュして即死。

 

F1としては、12年ぶりの死亡事故でした。セナは、初めて死亡事故を目の当たりにし、激しく動揺し、泣き崩れました。

 

その夜、セナは恋人に電話をかけたのです。

 

「走りたくない・・・」

 

初めて襲われた恐怖に、セナは追い詰められていました。

 

それでもセナは、翌日、サーキットに現れました。

 

セナは前回までのレースでリタイアが続き、勝てずに焦っていたという状況もありました。

 

予選2位のシューマッハは、すでに2戦連続優勝しており、セナは、「これ以上、負けられない」と葛藤していました。

 

若い頃のセナの言葉

2位というポジションは、敗者のトップ、僕にとって最も大切なのは勝つことだ。

 

サンマリノ・グランプリがスタートし、7週目、セナは時速200キロでタンブレロの壁に激突しました。そして4時間後、死亡が確認されました。

 

ブラジルでの国葬は、120万人が沿道を埋め尽くしました。

 

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セナの「不可解な死」

しかしセナの死には、不可解な点がありました。

 

衝突直前、セナは、ブレーキを踏んでいますが、なぜか、コンクリートの壁に一直線に向かってクラッシュしています。

 

コースをはずれ、まるでブレーキをかけていないような猛スピードで壁にぶつかりました。

 

事故当時、いろいろな憶測が流れました。

 

何かの原因で、セナが意識を失い、車をコントロールできなかったのではないか、とも言われていました。

 

事故後、「セナの死」の責任をめぐって裁判が開かれました。「セナを殺したのは誰か」というものでした。

 

容疑者として、セナのマシンのチーフエンジニアだったパトリック・ヘッド(セナの元広報官「ベアトリス」の夫)があげられました。

 

何故、パトリックは起訴されたのか?

 

以前からセナは、パトリックへ「マシンの不調」を訴えていたのです。「車体が不安定だ」とセナは言っていたのです。

 

しかし、F1は、この年からルール変更によって、電子制御システムの使用を禁止したのです。昨年までは、サーキットの全コーナーで、マシンが安定するように、電子制御でバランスをとっていたのです。

 

制御システムを搭載したマシンは、「まさに敵なし」で、F1がつまらなくなりました。そこでレースを面白くするため、ルールを変更したのです。

 

電子制御システムによってマシンが速くなっているのに、「安全性の検証を行わずに制御システムだけを外す」、それは、野獣のようなマシンを「不安定」にさせるだけでした。

 

セナは、その「危険性」に気づいてました。

 

観客を惹きつけるためには、よりスリリングなレースが必要です。しかし、その結果、安全が置き去りにされたのです。

 

8年に及ぶ裁判の結果は、「確かにマシンに異常はあったが、事故の責任までは問えない」というものでした。

 

結局、セナの事故の原因は、解明されなかったのです。

 

事故当日、生放送で見ていて、なぜ、セナの車がコースをはずれ、壁に向かったのか不思議でした。まるで吸い込まれるように壁に衝突したのが、今でも記憶に残っています。

 

私は、あまりのショックで、数日間、仕事になりませんでした。

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