「ゼロトラスト」という言葉を、最近ニュースやビジネスの現場で耳にする機会が増えたのではないでしょうか。
「また新しい横文字のIT用語が出てきた」
「セキュリティソフトを入れているから、自分には関係ない」
「難しそうだから、専門家に任せておけばいい」
もし、そのように感じてこの記事を開いたのであれば、あなたは非常に鋭い感覚をお持ちです。確かに、セキュリティ業界の言葉は難解なものが多く、どこか他人事に感じてしまいがちです。しかし、今の時代にパソコンやスマートフォンを使って仕事をする以上、この「ゼロトラスト」という概念を知らないままでいることは、家の鍵をかけずに外出するのと同じくらいリスクが高いことかもしれません。
当サイトでは、ITの効率化やガジェットの活用術を数多く紹介してきましたが、どんなに便利なツールも安全に使えなければ意味がありません。
結論から申し上げますと、ゼロトラストとは「何も信頼しない」という冷たい意味ではありません。「誰が、どの端末からアクセスしても、その都度しっかり確認する」という、非常に理にかなった「確認の作法」のことです。
この記事では、専門用語を極力使わず、例え話を用いながら、ゼロトラストの概念を徹底的にわかりやすく解説します。読み終える頃には、なぜ今までのやり方(VPNなど)では不十分なのか、そして私たちが明日から具体的に何をすべきかが、クリアに見えてくるはずです。
ゼロトラストとは?「境界防御」からの卒業
まず、「ゼロトラスト(Zero Trust)」という言葉の意味を紐解いていきましょう。直訳すると「信頼(Trust)がゼロ」となります。これだけ聞くと、「従業員や仲間を信用しないなんて、なんて殺伐とした考え方なんだ」と思われるかもしれません。
しかし、ここでの「信頼」とは、人の心の話ではなく、システム的な「無条件の許可」を指します。これを理解するために、まずは従来のセキュリティの考え方と比較してみましょう。
従来のセキュリティ「境界型防御」=お城と堀
これまで長い間、日本の企業や組織で採用されてきたセキュリティの基本は「境界型防御」と呼ばれるものでした。これをわかりやすく「お城」に例えてみます。
- 社内ネットワーク(城の中): 安全で信頼できる場所。王様や家来(社員)がいる。
- インターネット(城の外): 危険な場所。敵や泥棒がいる。
- ファイアウォール(城壁と門): 外敵の侵入を防ぐための壁。
このモデルでは、「門番(ファイアウォール)」が入り口でチェックを行い、一度城の中に入れてしまえば、「中にいるのは味方だ」とみなして自由に振る舞うことが許されました。これが「社内ネットワークにいれば安全」という神話の正体です。社内のパソコン同士であれば、パスワードなしでファイルを共有できたり、複雑な認証なしでサーバーにアクセスできたりしたのは、この「境界(境界線)」に守られていたからです。
ゼロトラスト=すべてのドアに警備員
一方、ゼロトラストの考え方は全く異なります。ゼロトラストの世界では、「安全な場所(城の中)」という概念が存在しません。すべてが「危険なインターネット(城の外)」と同じレベルであると考えます。
たとえ物理的にオフィスのデスクに座っていたとしても、あるいは社長のパソコンからのアクセスであったとしても、システムはこう問いかけます。
「あなたは本当に本人ですか?」
「そのパソコンはウイルスに感染していませんか?」
「そのデータを見る権限を持っていますか?」
これを、お城の例ではなく現代のオフィスビルに例えるなら、「すべての部屋のドアに警備員が立っている状態」と言えるでしょう。エントランスを通ったからといって、社長室やサーバールームに自由に入れるわけではありません。部屋を移動するたびに、IDカードをかざし、場合によっては指紋認証を行い、「今は入ってよし」と許可を得る。これがゼロトラストのイメージです。
なぜ「信頼しない(Zero Trust)」なのか
「何も信頼しない(Never Trust)」の対義語として、ゼロトラストでは「常に検証する(Always Verify)」という言葉がセットで使われます。
従来の「境界型防御」は、「内側は善、外側は悪」という「性善説」に基づいていました。しかし、一度侵入を許してしまうと、攻撃者は内部で自由に動き回れてしまいます。また、内部の人間が悪意を持って情報を持ち出す「内部不正」に対しては無力でした。
ゼロトラストは、「内側も外側も関係なく、すべての通信を疑って検証する」というアプローチを取ることで、どこから攻撃されても、あるいは内部で何かが起きても、被害を最小限に食い止めようとする考え方なのです。
なぜ今、ゼロトラストが必要なのか?
では、なぜ今になって急にゼロトラストが叫ばれるようになったのでしょうか。数年前までは「ウイルス対策ソフト」と「ファイアウォール」で十分だったはずです。その背景には、私たちの「働き方」の劇的な変化があります。
クラウドサービスの普及とテレワークの常態化
最大の理由は、守るべきデータやシステムが「社内(お城の中)」になくなってしまったことです。
今、私たちはGoogle WorkspaceやMicrosoft 365、Slack、Chatwork、Zoom、会計ソフトなど、多くのクラウドサービスを利用しています。これらのデータの本体は、会社のサーバールームではなく、インターネット上のどこか(クラウドベンダーのデータセンター)にあります。
また、私たち自身もオフィスに毎日出社するとは限りません。カフェで仕事をしたり、自宅から会議に参加したり、移動中の新幹線でスマホからメールを返したりします。
- データがある場所:インターネット上(クラウド)
- 仕事をする場所:インターネットに繋がるあらゆる場所
このように、守るべきものも、働く人も「お城の外」に出てしまった以上、お城の周りに高い壁や堀を築くことには意味がなくなってしまったのです。境界線が消滅した現代において、古い守り方を続けることは、穴の空いた傘で台風の中を歩くようなものです。
VPNの限界とセキュリティ事故の変化
これまで、社外から社内のシステムにアクセスするために「VPN(Virtual Private Network)」が使われてきました。VPNは、インターネット上に専用のトンネルを掘って、安全に社内ネットワーク(お城)と手元のパソコンを繋ぐ技術です。
しかし、近年このVPN装置自体の脆弱性(セキュリティの欠陥)を狙ったサイバー攻撃が急増しています。VPNのIDとパスワードが盗まれれば、攻撃者は「正規の社員」になりすまして堂々とトンネルを通り、社内ネットワークに侵入できてしまいます。
さらに、クラウドサービスの利用が増えたことで、すべての通信を一度本社のVPN装置経由にすると、通信量が爆発的に増え、回線が遅くなるという問題(プロキシの負荷増大など)も発生しています。「VPNが遅くて仕事にならないから、勝手に自分のスマホのテザリングでクラウドに直接繋いだ」という経験がある方もいるかもしれません。これはセキュリティ管理上、非常に危険な状態(シャドーIT)です。
内部不正やアカウント乗っ取りのリスク
サイバー攻撃の手口も巧妙化しています。最近の脅威の主流は、高度なハッキング技術で壁を破壊するのではなく、従業員を騙してIDやパスワードを盗み出す「フィッシング」や、ウイルス付きのメールを開かせる手法です。
正規のIDとパスワードを使ってログインされた場合、従来の「境界型防御」ではそれを防ぐことができません。「正しい鍵」を持っている以上、システムはそれを「正しい利用者」として招き入れてしまうからです。
だからこそ、「正しい鍵を持っているか」だけでなく、「普段と違う場所からのアクセスではないか」「使っている端末は安全か」「深夜に大量のデータをダウンロードしていないか」といった多角的な視点で、常に検証し続けるゼロトラストの仕組みが必要不可欠になっているのです。
VPNとゼロトラストの決定的な違い
ここまで読んで、「VPNとゼロトラストは何が違うの?」と思われた方も多いでしょう。両者は対立するものではありませんが、守り方のアプローチが根本的に異なります。当サイトおすすめの視点で、その違いを整理してみます。
VPNは「トンネル」、一度入れば自由
VPNは、あくまで「安全な通信経路」を提供する技術です。イメージとしては、自宅から会社のネットワークまで直通の「専用地下トンネル」を引くようなものです。
- 特徴: 通信経路の暗号化。
- 弱点: トンネルの入り口(ID・パスワード)を突破されると、トンネルの先にある社内ネットワーク全体にアクセスできてしまう可能性がある。また、VPNに接続したパソコンがウイルスに感染していると、トンネルを通じて社内にウイルスを運んでしまうリスクがある。
ゼロトラストは「通行手形」、毎回チェック
一方、ゼロトラスト(特にZTNA:ゼロトラストネットワークアクセスと呼ばれる仕組み)は、通信経路だけでなく、アプリケーションやデータへのアクセスそのものを制御します。
- 特徴: アプリケーションごとに専用の「通行手形」を発行するイメージ。
- 強み: たとえIDとパスワードが合っていても、端末の状態が悪ければアクセスさせない。Aというアプリへのアクセスは許可しても、Bというデータベースへのアクセスは許可しない、といった細かい制御が可能。
利便性とセキュリティのバランス
VPNを利用する場合、仕事をする前に「まずVPNに接続する」という操作が必要でした。接続が切れると作業が中断されるストレスもありました。
ゼロトラストに基づいた最新のセキュリティサービスでは、ユーザーが意識せずにバックグラウンドで認証や検証が行われることが多くなっています。例えば、クラウドサービスにアクセスしようとした瞬間、裏側で「端末のOSは最新か」「不審な場所からのアクセスではないか」が瞬時に判定され、問題がなければそのまま利用できます。
「セキュリティを厳しくすると使い勝手が悪くなる」というのは過去の話になりつつあります。ゼロトラストは、セキュリティレベルを高めつつ、どこでも快適に働ける環境を作るための土台とも言えるのです。
個人や小規模チームから始める「身近なゼロトラスト」
「ゼロトラストの概念はわかったけれど、導入には高価なシステムが必要なんでしょう?」
そう思われるかもしれませんが、実はゼロトラストの「考え方」を取り入れるだけであれば、個人事業主や小規模なチームでも明日から実践できることがたくさんあります。高額なツールを導入する前に、まずは以下の3つの柱を見直してみましょう。
【ID管理】パスワードだけに頼らない(MFAの徹底)
ゼロトラストの第一歩は、「確実な本人確認」です。IDとパスワードだけの認証は、もはや「鍵を玄関マットの下に置いている」のと同じくらい脆弱です。
- 多要素認証(MFA)を必ず設定する: Googleアカウント、SNS、クラウド会計ソフトなど、利用できるすべてのサービスで「2段階認証」や「多要素認証」を有効にしてください。これにより、万が一パスワードが漏れても、スマホへの通知や指紋認証がなければ不正ログインできなくなります。
- パスワードの使い回しをやめる: パスワード管理アプリなどを活用し、サービスごとに異なる複雑なパスワードを設定しましょう。
【デバイス管理】OSとソフトの最新化・EDRの視点
次に重要なのが「使う道具(デバイス)の健全性」です。いくら本人が正しくても、使っているパソコンがウイルスまみれでは意味がありません。
- OSとブラウザは常に最新に: Windows UpdateやmacOSのアップデートは、「後で」にせず、すぐに適用しましょう。これらは機能追加だけでなく、セキュリティの穴を塞ぐ工事でもあります。
- 次世代のウイルス対策: 従来のパターンマッチング方式(指名手配犯リストと照合する方式)のウイルス対策ソフトだけでなく、端末の「振る舞い」を検知する機能(EDR的な機能)を持つセキュリティ機能の有効化を検討しましょう。Windows標準のMicrosoft Defenderも、適切に設定すれば非常に強力な防御力を発揮します。
【ネットワーク】公衆Wi-Fiへの無防備な接続をやめる
「信頼しない」ネットワークを前提にするとはいえ、あえて危険に飛び込む必要はありません。
- カフェやホテルのフリーWi-Fiに注意: 暗号化されていないWi-Fiや、パスワードが公開されているWi-Fiは、通信内容を盗み見られるリスクがあります。
- テザリングの活用: 重要なデータを扱う際は、フリーWi-Fiではなく、スマートフォンのテザリング機能を使用することをおすすめします。携帯電話の通信網の方が、不特定多数が利用するWi-Fiよりも遥かに信頼性が高いからです。
ゼロトラストに関するよくある誤解
最後に、ゼロトラストについてよくある誤解を解いておきましょう。
「特定の製品を買えば導入完了」ではない
「弊社は〇〇社のゼロトラスト製品を導入しました」という宣伝を見かけますが、ゼロトラストは「製品名」ではなく「戦略・概念」です。便利なツールはたくさんありますが、それを導入すれば終わりではありません。「誰に、どのデータへのアクセスを許すか」というルール(ポリシー)を決め、運用し続けることが本質です。
「大企業だけの話」ではない
ここまで解説してきた通り、クラウドサービスを一つでも使っているなら、組織の規模に関わらずゼロトラストの視点は不可欠です。むしろ、専任のセキュリティ担当者がいない小規模な組織こそ、クラウドサービスのセキュリティ機能(ゼロトラストの要素が含まれています)をフル活用して、手間をかけずに守りを固めるべきです。
まとめ:セキュリティは「守る」から「確認し続ける」へ
今回の記事では、難解になりがちな「ゼロトラスト」について、その概念と必要性を解説しました。
- 境界型防御(従来): お城の壁で守る。一度入れば信用する。
- ゼロトラスト(現在): 信頼せず、常に確認する(Always Verify)。
この変化は、私たちがオフィスという物理的な場所から解放され、自由な場所で働けるようになったことの裏返しでもあります。
「確認されること」は、決して面倒なことや、疑われることではありません。それは、あなたがあなたであることを証明し、大切なデータや資産を守るための最強の盾となります。
まずは、身近なアカウントの多要素認証がオンになっているか、パソコンのOSが最新になっているかを確認することから始めてみてはいかがでしょうか。その小さな「確認」の積み重ねこそが、ゼロトラストセキュリティの第一歩なのです。
