「とうとう、この日が来てしまった」
2025年12月、日本中のパンダファンがため息をついたことでしょう。東京都から正式に、上野動物園の双子パンダ「シャオシャオ(暁暁)」と「レイレイ(蕾蕾)」の返還期限が2026年1月と発表されました。
2024年秋に両親であるリーリーとシンシンが旅立ち、2025年6月には和歌山のアドベンチャーワールドからもパンダたちが旅立ちました。そして今、最後の砦であった双子の帰国が決まったことで、私たちは1972年以来、約50年ぶりに「日本からパンダがいなくなる」という、信じがたい空白期間を迎えようとしています。
なぜ、これほどまでに別れが続くのでしょうか。そして、私たちはこの寂しさをどう乗り越えればいいのでしょうか。
この記事では、現在の返還スケジュールの詳細から、半世紀にわたる日本のパンダ史、そして「なぜ帰らなければならないのか」という素朴な疑問まで、涙と笑顔の歴史を徹底的に解説します。歴史を知ることで、彼らとの思い出がより輝くものになるはずです。
【最新】上野動物園のパンダはいつ帰る?返還スケジュール詳細
まずは、私たちが直面している現実、シャオシャオとレイレイの返還スケジュールと、ここ数年の激動の動きを整理しましょう。
シャオシャオ・レイレイの返還期限(2026年1月)
東京都の発表によると、シャオシャオとレイレイの返還時期は2026年1月下旬です。2021年6月に生まれた彼らは現在4歳半。人間でいえば高校生から大学生くらいの年齢に差し掛かり、パンダの世界では立派な「大人」としてパートナーを探す時期を迎えています。
具体的なお別れまでのスケジュールは以下の通りです。
- 最終観覧日(予定): 2026年1月25日
- 観覧方法の変更: 2025年12月23日からは、混雑緩和とパンダのストレス軽減のため、従来の並び順ではなく「事前予約制」へと切り替わります。
- 抽選制の導入: さらに返還直前となる1月中旬以降は、観覧が「完全抽選制」となる見込みです。シャンシャンの返還時もそうでしたが、倍率は数十倍になることが予想されます。
「最後に一目会いたい」という方は、予約開始のタイミングを逃さないよう、動物園の公式サイトをこまめにチェックする必要があります。これがおそらく、日本で見られる最後の姿となるでしょう。

リーリー・シンシンは2024年に帰国済み
この「別れの連鎖」は、2024年から始まりました。上野動物園の大黒柱であった父「リーリー(力力)」と母「シンシン(真真)」が、2024年9月29日に中国へ帰国したことは記憶に新しいでしょう。
当初の予定よりも早い帰国だったため、驚いた方も多かったはずです。理由は彼らの健康状態でした。特にリーリーは高血圧の症状が見られ、慣れ親しんだ故郷である中国・四川省の保護センターで、より専門的な治療と穏やかな余生を過ごすことが最善と判断されたのです。
現在、彼らは中国の保護基地で元気に暮らしています。現地の映像が公開されることもあり、のんびりと竹を食べる姿に安堵したファンも多いことでしょう。彼らは日本での任務を立派に果たし、故郷での「定年後」を楽しんでいるのです。
日本からパンダがいなくなる?「空白期間」の衝撃
2024年の神戸・王子動物園の「タンタン(旦旦)」の永眠、そして和歌山・アドベンチャーワールドのパンダたちの帰国。これに今回のシャオシャオ・レイレイの帰国が加わることで、日本の動物園からジャイアントパンダの姿が消える可能性があります。
1972年に最初のパンダが来日して以来、日本には常にどこかの動物園にパンダがいました。上野にいない時期でも、和歌山や神戸にはいたのです。しかし、2026年の春、私たちは約半世紀ぶりに「パンダのいない日本」を経験することになるかもしれません。
この「空白」は、単なる喪失ではありません。日本のパンダ飼育と繁殖研究が、一つの大きな節目を迎え、次のステージへ進むための準備期間とも言えるのです。
日本のパンダ史の幕開け!1972年の「パンダブーム」とは?
時計の針を50年以上前に戻しましょう。今のパンダ人気の原点は、すべてここから始まりました。
日中国交正常化とランラン・カンカンの来日
日本のパンダ史が始まったのは、1972年(昭和47年)10月28日のことです。当時の田中角栄首相が中国を訪問し、日中国交正常化を実現させた記念として、中国から2頭のジャイアントパンダが贈られました。それが伝説のペア、「カンカン(康康)」と「ランラン(爛爛)」です。
当時の日本において、パンダは図鑑の中でしか見られない幻の珍獣でした。白黒模様の愛らしい熊が本当にやってくるというニュースに、日本中が色めき立ちました。彼らを乗せた特別機が羽田空港に到着した時、空港は報道陣と警察官、そして一目見ようとする人々で溢れかえり、まるで国賓級のVIPの来日と同じような厳戒態勢が敷かれました。
上野動物園までの移送ルートには、パンダを乗せたトラックを一瞬でも見ようと沿道に人だかりができ、警察の白バイが先導する物々しくも華やかなパレードとなりました。

社会現象となった「パンダ・フィーバー」
一般公開が始まった11月5日、上野動物園には歴史的な行列ができました。開園前から数キロにわたる長蛇の列ができ、徹夜組も続出。「2時間待って観覧時間はわずか30秒」という状況でしたが、それでも人々は文句ひとつ言わず、ガラス越しの愛くるしい姿に熱狂しました。
この「パンダ・フィーバー」は凄まじいものでした。上野の街からはパンダグッズ以外の土産物が消え、デパートの屋上にはパンダの乗り物が設置され、テレビをつければパンダのアニメや特番ばかり。子供たちはこぞってパンダの絵を描き、日本人の心に「パンダ=かわいい=平和の象徴」という図式が完全に定着したのです。
ランランとカンカンは、残念ながら子供を残すことはできませんでしたが、彼らが日本に撒いた「愛の種」は、その後のパンダブームの土台となりました。
上野・和歌山・神戸…日本の3大パンダ聖地の歴史と功績
日本のパンダ史を語る上で欠かせないのが、上野、和歌山、神戸という3つの「聖地」です。それぞれが全く異なるドラマと功績を持っています。
【東京・上野動物園】国民的アイドルの系譜
上野動物園は、常に「ブームの発信地」でした。ランラン・カンカンの後、1980年代には「ホァンホァン(歓歓)」と「フェイフェイ(飛飛)」が来日。このペアから1986年に生まれたのが「トントン(童童)」です。
トントンは、日本で初めて順調に育ったパンダの赤ちゃんとして、第2次パンダブームを巻き起こしました。公募で決まった名前には27万通もの応募があり、彼女の成長記録は連日ニュースで報じられました。
その後も、メキシコから来た「リンリン(陵陵)」が一人で上野を守った時代を経て、2011年にリーリーとシンシンが来日。東日本大震災の直後で沈んでいた日本に明るい話題を届けてくれました。そして2017年、待望の「シャンシャン(香香)」が誕生。彼女の人気ぶりは社会現象となり、経済効果は数百億円とも言われました。上野のパンダは、常に時代の空気とリンクし、国民的なアイドルとして愛されてきたのです。
【和歌山・アドベンチャーワールド】世界屈指の繁殖基地「浜家」
東京から離れた和歌山県白浜町にあるアドベンチャーワールドは、世界中の動物園関係者が驚愕する「繁殖の実績」を持っています。
その中心にいたのが、オスのアドベンチャーワールドの英雄、「永明(エイメイ)」です。1994年に来日した彼は、グルメで偏食家、性格は穏やかな紳士でした。彼はメスの「良浜(ラウヒン)」との相性が抜群で、自然交配によって次々と子供を授かりました。
彼らが築き上げた大家族は「浜家(はまけ)」と呼ばれ、その数はなんと17頭(永明の子供の総数)。これは中国国外での飼育下において世界最多記録です。
和歌山の特徴は、ガラス越しではない「オープンな環境」でパンダを見られることと、優れた飼育技術です。温暖な気候と良質な竹、そしてスタッフの献身的な努力が、この奇跡のような大家族を支えました。2023年に永明が帰国した際、多くのファンが涙ながらに「スーパーパパ」を見送ったのは、その偉大な功績への感謝からでした。
【神戸・王子動物園】復興のシンボル「タンタン」
神戸の王子動物園には、また違った物語があります。ここにいたのは、メスの「タンタン(旦旦)」です。
彼女が来日したのは2000年。1995年の阪神・淡路大震災で傷ついた神戸の街を元気づけるため、「日中共同飼育繁殖研究」の一環としてやってきました。彼女は少し手足が短く、小柄で愛らしい体型から「神戸のお嬢様」と呼ばれ、親しまれました。
しかし、彼女の生涯は平坦ではありませんでした。夫となるはずだった初代コウコウは繁殖能力がなく帰国、2代目コウコウは急死してしまい、彼女は長い間、ひとりぼっちで過ごすことになります。それでも、彼女はいつもマイペースにタイヤで遊び、竹を食べる姿で、復興途上の神戸市民に癒やしを与え続けました。
晩年は心臓疾患との闘いでした。本来なら中国へ帰るはずでしたが、病状を考慮して帰国を延期。日中双方の専門家が協力して治療にあたりました。2024年3月、彼女は28歳(人間なら80代後半)で天国へ旅立ちましたが、最後まで神戸市民に愛され、震災復興のシンボルとしての使命を全うしたのです。
なぜ中国に帰らなければならないの?「返還」の仕組み
「あんなに日本に馴染んでいるのに、なぜ帰さなければならないの?」
「かわいそうだから、ずっと日本にいさせてあげてほしい」
パンダのニュースが出るたびに、こうした声が上がります。しかし、これには明確な理由とルールがあります。
ワシントン条約と「繁殖貸与」のルール
1972年のランラン・カンカンの時代、パンダは「贈呈(プレゼント)」でした。つまり、日本の所有物だったのです。しかし、野生のパンダの数が激減し、絶滅の危機に瀕したことから状況が変わります。
1984年以降、ワシントン条約の精神に基づき、パンダの商業取引は禁止されました。その代わりに行われるようになったのが「繁殖研究のための貸与(レンタル)」です。現在、世界中の動物園にいるパンダ(中国国外)は、すべて中国からの「借り物」であり、その所有権は中国にあります。
この契約には、「繁殖適齢期(性成熟する4歳前後)になった子供は、パートナーを見つけるために中国へ返す」というルールが含まれています。日本国内では血縁関係が濃くなりすぎてしまい、近親交配のリスクがあるため、遺伝子の多様性を守るためには、世界最大のパンダ基地がある中国へ戻り、そこで最適なお相手を見つける必要があるのです。
シャオシャオやレイレイの帰国も、まさにこの「お婿さん・お嫁さん探し」のため。彼らの幸せな未来を考えればこその旅立ちなのです。
高齢パンダの帰国事情
一方で、リーリーやシンシン、永明のように、高齢になってから帰国するケースもあります。これは「繁殖」ではなく、「老後のケア」が主な理由です。
中国には「パンダ保護研究センター」という、パンダ専用の巨大な医療施設と養老施設があります。そこには世界最高峰のパンダ医療チームと、豊富な種類の竹、そして故郷の気候があります。高齢になり、高血圧や心臓疾患などの持病を抱えたパンダにとって、より高度な医療を受けられ、生まれ故郷の土を踏める環境に移ることは、動物福祉の観点から見て非常に重要な選択なのです。
日本で最期まで看取るケース(タンタンなど)もありますが、基本的には「治療ができるなら、設備の整った中国へ」というのが現在の方針となっています。
【年表】日本の歴代パンダ来日・誕生・別れの歴史
ここでは、激動の日本のパンダ史を主要な出来事で振り返ります。特に近年の「別れ」のラッシュを見ると、私たちが今、歴史の転換点にいることがわかります。
- 1972年10月: 【歴史的瞬間】 ランラン・カンカン来日(上野)。日本にパンダブーム到来。
- 1980年~82年: ホァンホァン、フェイフェイ来日(上野)。
- 1986年6月: トントン誕生(上野)。日本で初めて育った赤ちゃんパンダ。
- 1994年9月: 永明、蓉浜(ヨウヒン)来日(和歌山)。和歌山のパンダ史がスタート。
- 2000年7月: タンタン来日(神戸)。震災復興の希望として。
- 2001年12月: 雄浜(ユウヒン)誕生(和歌山)。永明の最初の子であり、ここから「浜家」の快進撃が始まる。
- 2008年4月: 上野のリンリン死亡。上野動物園からパンダがいなくなる(約3年間の空白)。
- 2011年2月: リーリー・シンシン来日(上野)。再び上野にパンダが戻る。
- 2017年6月: 【熱狂】 シャンシャン誕生(上野)。社会現象となる。
- 2020年~: コロナ禍により、シャンシャンやタンタンの返還が延期に。
- 2021年6月: シャオシャオ・レイレイ誕生(上野)。
- 2023年2月: シャンシャン(上野)、永明・桜浜・桃浜(和歌山)が中国へ返還。涙の別れ。
- 2024年3月: タンタン永眠(神戸)。国内最高齢28歳。
- 2024年9月: リーリー・シンシン(上野)が電撃帰国。
- 2025年6月: 和歌山のアドベンチャーワールドからパンダたちが中国へ返還。
- 2026年1月(予定): 【現在】 シャオシャオ・レイレイ返還へ。
こうして見ると、2023年から現在にかけて、怒涛のように返還が続いていることがわかります。これは、コロナ禍でストップしていた物流や人の移動が再開し、延期されていた計画が一気に実行されたこと、そして日本にいるパンダたちの世代交代の時期が重なったことが要因です。
まとめ:さよならだけじゃない、未来への希望
シャオシャオとレイレイの帰国により、日本から一時的にパンダがいなくなるかもしれません。慣れ親しんだ動物園のパンダ舎が空っぽになるのを見るのは、本当に辛いことです。
しかし、これは決して「永遠の別れ」ではありません。
まず、中国へ帰ったパンダたちの未来は明るいものです。シャンシャンは中国で元気に暮らしていますし、永明も故郷で悠々自適な生活を送っています。SNSや現地のニュースを通じて、彼らの元気な姿を見ることは、これからの新しい楽しみ方の一つになるでしょう。日本の飼育員さんに育てられた彼らは人懐っこく、現地でも人気者になることが約束されています。
そして、「ゼロ」になることは、次の「イチ」への準備期間でもあります。
過去にも上野動物園にはパンダがいない時期がありました。その間、動物園はパンダ舎を改修し、外交官たちは新たなパンダの借用に向けて交渉を続けました。今回も、日中関係の情勢を見ながら、必ず新たな交渉が行われるはずです。
今回の「全頭帰国」は、日本のパンダ繁殖研究が世界的な成功を収め、一つの大きな役割を終えたという「卒業証書」のようなものです。
まずは、これまで私たちに数え切れないほどの笑顔と癒やしをくれた全てのパンダたちに、「ありがとう、お疲れ様」と伝えましょう。
そして、シャオシャオとレイレイには、笑顔で「行ってらっしゃい!」と手を振って送り出そうではありませんか。彼らが中国で素敵なパートナーと出会い、その子供たちがまたいつか、日本と中国の架け橋となる日が来ることを信じて。

